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五反野と商店街の歴史

五反野の地域と商店街の歴史を皆さんへご紹介します。

葛飾北斎「富嶽三十六景色・武州千住」

五反野のむかし

千住の宿を起点とする下妻道は、北千住の宿場町通りから五反野駅前通りを抜け、四ッ家の交差点を右折し花畑通りから茨城の下妻市へ抜ける街道でした。
今から150年程前の江戸時代、1868年3月14日に近藤勇、土方歳三ら新撰組がこの街道を通り千葉の流山へ向かう為に五兵衛新田(現、綾瀬4丁目)に集まってしばらく逗留していたそうです。

葛飾北斎『富岳三十六景色・武州千住』

五反野の由来

千葉家の京極弥五郎の子孫が開墾したそうですが、『弥五郎新田地誌稿』によれば『初め僅か五段の田畝をなせり。因って其の地を仮に五反野と云いしを、今に里俗其の名称を唱う』とのこと。
つまり開墾して最初に5段の田畝を作ったことから五反野と名前がついたと言われています。

町名の由来

通りの北側にある六差路の交差点「四家(よつや)」、江戸時代この地域に住まわれていた四家族、鶴飼、市川、高橋(兄弟)さんからついたと言われています。(「足立風土記」より)
旧住所には千住若松町、千住弥生町、千住栄町など千住の付いた地名があって荒川放水路ができる以前には千住であったと思われる名残もあります。それらの地名からとったと思われるお店や公共施設も存在しています。

大東京市全図・昭和7年からの五反野駅周辺

大東京市全図・初版昭和7年からの五反野駅周辺

(引用:http://www.uraken.net/chimei/tokyo/)

五反野四家交差点周辺より五反野駅方面を望む

五反野と近代

五反野駅界隈は大正13年に荒川放水路が完成後、街道が遮断されました。それ以降は放水路の完成とほぼ同時期に千住新橋が出来上がったので、現花畑街道(バス通り)の方が商店街とは言わないまでも数軒の商店、竹製品のお店、種屋、呉服屋、薪屋さんなどがあり、群落を形作っていました。
昭和40年代前半に、駅前通りに沿って存在していた用水路も含め、この地区にあった俗称「どぶ川」が整備され、下水路として蓋がされたのちに商店も増え発展を始めました。
昭和40年代前半までは駅前にテニスコートとグラウンドもあったのですが、現サミットストアが建ち、昭和45年4月には商店会が発足されました。

以来40数年経ちますが、今も60%以上のお店が営業を続け、創業100年になるお店もあります。

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